000
エンタメの広場40
+本文表示
バラエティー生活笑百貨のアシスタント桜稲垣早紀ってかわゆすな〜ノ
[ロド] hRxI7CN54Qr7
229
なんや、SMの要素を盛り込んだ、ど素人の歌番組って、(笑)
230
エンゼルス大谷フィーバー
異例の球場前の入団会見では、エンゼルスの帽子を被った子供やおばちゃんが押し寄せてる。楽しそうな大谷。
ドジャース野茂、ヤンキース松井秀、を超えるほどのフィーバーと言ったらいい過ぎか⁈
231
ちょっと自首してくるわ(๑>◡<๑)
232
わりぃ、貼るとこ間違えた(๑>◡<๑)
233
1976年
タイトルを争ったのは巨人・張本勲、ヤクルト・若松勉、中日・谷沢健一の3人。
大本命はこの年、日本ハムから優勝請負人として移籍してきた張本だった。
パ・リーグでは7度の首位打者に輝いており、経験も実績も群を抜いている。
対抗馬と見られたのが若松だった。
1972年に首位打者獲得の経験があり、3割の常連である。
タイトルはもちろん、プロ入りしてからまだ3割を打ったことは一度もない谷沢は大穴というのがスポーツ紙の一致した見方だった。
(・_・)(・_・)(・_・)
234
ミックとキース
が書いた「サティスファクション」の大ヒットによって、カバー曲中心だった初期において音楽的主導権を握っていたブライアンはその座から追われた。
以降、自作曲を書かない彼は、ギター以外の楽器をバンドに持ち込むことでストーンズの音楽の幅を広げることに貢献するようになった。
「黒く塗れ!」ではシタールを、「ルビー・チューズデイ」ではピアノとフルートをブライアンはプレイしている。
これらの演奏は完全な自己流だったがある種の天才的な閃きがあり、それが古典的な編曲を施していたビートルズに対してストーンズのほうがクールとの認識を与えることになった。
(・_・)
235
しかしこのころからブライアンはレコーディングをすっぽかすようになり、ミックとキースは彼のクビを決断。
彼はサセックスに買った屋敷に引きこもって再起を図ったが、69年7月に自宅プールで溺死体で発見された。
享年27。
当初はアルコールとドラッグの過剰摂取が原因と発表されたが、恋人は「彼は当時薬を断っていた」と証言。
93年には友人のフランク・サラグッドが死の床でブライアン殺害を認めた。
しかし真相はいまだに明らかになっていない。
(・_・)
236
■マツダさんはアメリカで活躍していましたが、やはり日本に定着したいという気持ちがあったんですかね?
菊池孝
◆戻って来たかったけど、リキさんが生きている間は戻って来れなかったんだ。リキさんは「俺の目が黒いうちは、あの野郎に日本の土を踏ませねぇ!」と言っていたから、やっぱり怖かったと思うよ。
だから、死んでからの凱旋でしょ。
アメリカで一匹狼で成功したけど、日本でも成功したいという気持ちがあったと思うな。
■国際プロレスの正式な社名は『インターナショナル・レスリング・エンタープライズ』ですが、これは菊池さんが命名したという説もあります。
◆いや、俺じゃねえんだよ。
吉原さんが考えたんじゃないかな。
俺が国際の仕事をするようになったのは、TBSでの放映が始まってからだよ。
(・_・)
237
村松友視
『私、プロレスの味方です』を書くにさいして、プロレスという摩訶不思議な世界を表現するために、私はいくつかの自家製の言葉を無理矢理に紡ぎ出している。
過激∞世間∞凄み∞殺気∞間合い∞残心∞人生
などの言葉に私好みの色づけをほどこして、虚実の交錯にみちた反則ぶくみのプロレスの性格を意識しながら用いた。
また、「ジャンルに貴賤なし」「凶器と武器のカンケイ」「プロレスはクソ真面目に見よう」などの章をもうけたのも、世間≠ニ過激≠対比させつつ、さまざまなアングルからプロレスに光を当ててみようと目論んだ結果だった。
そんな私なりの当時におけるかまえが、『私、プロレスの味方です』の「あとがき」にもあらわれている。
(・_・)
238
「こんなプロレスをやっていたら、10年もつ私のプロレスの寿命が5年になるかもしれませんが、こうなったら、どんな相手の挑戦でも受けます!」
これは、昭和48年12月10日に東京体育館で行われたNWF世界ヘビー級選手権試合(のちNWA加盟のため「世界」の文字が消える)で、ジョニー・パワーズを破ってチャンピオン・ベルトを腰に巻いた直後、リング上のインタビューアーに答えたアントニオ猪木の言葉である。
私はこの言葉を今でも強烈に憶えている。
なぜこだわったかと言えば、「こんなプロレス」という言葉の対岸に、否定すべき「あんなプロレス」が透けて見えたからだ。
(・_・)
※このスレッドのコメントはこれ以上投稿できません。