576 そもそも時とは流れなのか。時は流れてるのか。おおきな問題があるんですよね。 時は人間の意識でしか認識できないわけです。そうすると時の流れは人間の意識の流れとなるわけで時間が流れてるとは言えません。 神はアルファでありオメガであるといいました。もしかしたら、時もアルファでありオメガであるかもしれないのです。時は始まりであり時は終わりであるかもしれない。流れてなんかない、時がある。これだけ。 昔、酔歩する男だったかな。そんな題名の短編SFを読みました。小林泰三さんですね。これが時間認識の話でしてね。時間は人間の認識であって脳の1部に時間認識をとどめる器官がある。だから時間は人間の意識に固定される。そんなことを発見した科学者がいた。実験としてその器官を破壊してしまうのです。 時は波動関数の集束であるというのです。集束したものを意識で固定したのが時間である。この器官を壊した科学者はですね。 匿名さん2023/10/01 19:263
578 >>576 意識が広がってしまう、時にさらされる。そして波動関数が集束する、そのとき彼は子供だった。固定できないから、また、バラバラになる。波動関数が集束する、そのとき彼は老人だった。時間を固定する器官を破壊した科学者は永遠の時をさまよい続けている。そんなSFでした。 これは衝撃的な小説でしたね。作家って凄いなと思いましたよ。不安になりました。怖かった。 (・ω・) 匿名さん2023/10/01 19:28
579 >>576 いい線行ってると思います。 「時」(存在)は意識と関連している。 意識があるから「存在」がある。 唯物論歯「存在」(もの)は「意識」に先立つ、意識がなくても存在は先にあるとう考えで、これは現代の科学的世界観です。 一方、「意識」が先にあり「意識」があるから意識への現れとして「存在」がある、「意識」が「存在」よりも先だという考えが観念論です。観念論は今の科学的世界観の時代において分がわるい状況かもしれません。 私の考えは「意識」あるいは「存在」のどちらかが先にあるというより、「意識」と「存在」は「同時」だと思います。 「意識」があるから「存在」があるという考えである点では観念論の考え方と同じです。 匿名さん2023/10/01 19:472
582 >>576 「時は始まりであり時は終わりであるかもしれない。流れてなんかない、時がある。これだけ」 ↑これいい線行ってると思う。 「時」は存在であり、在るんです。 匿名さん2023/10/01 19:57